濡れながら絶望する映画『ニンフォマニアック』を見てきた
ラース・フォン・トリアー 『ニンフォマニアック』"NYMPH()MANIAC"
ラストシーンで見せつけられたのは、絶望だった。
4時間っ…………4時間かけてこのラスト……………っ!
なんと最高に絶望的。
映画冒頭から、「見たくないラスト」として予想していたけれど、本当に見せつけられると、こうも救いようのない気持ちになるなんて。
感想なんてとても書けたものじゃなかった。見終わった後の数時間ずっと「優しいもの……優しいものを……」と呟きながらフラフラしていた。ミルク多めでお願いします。
映画『ニンフォマニアック』予告 - R18+ - YouTube
今までの作品の中でも「人間」の皮の下に流れるさまざまな感情を抉り出し、見るものに対して圧倒的衝撃を持って語りかけてきたラース・フォン・トリアーが最新作で描いたのは、ひとりの女のとめどない「性」への欲望でした。
前後編で4時間にも渡る長編の中で一貫して貫かれた主張はたったひとつ。
「ジョーはジョーであり、彼女の奥底から湧き上がる欲望に対して正直に従っているだけ」
でも、このシンプルな事実を受け入れることをどうやら人間は拒むようです。
解説おじさん vs セックス狂いの女
雪の中、血を流して打ち捨てられていた女ジョーを、通りがかったインテリ老紳士が家で介抱します。やがてジョーは「わたしは色情狂(ニンフォマニアック)なの」と老人に語り出します。
かたや、あらゆる男根を味わってきた、性器が心臓のような女。
かたや、哲学や心理学、経済学など多様な学問を修めたインテリ老人。
「わたしは変だからわかるはずがない」という女と「この博識なわたしが君を解明して解説してみせよう」という男——この構図は、まったく不可解で自分たちを狂わせる「女」という生き物を解明し、屈服させようとしてきた男たちの歴史を思わせます。
この老人がいわゆる「知識をひけらかす高学歴男」そのもので、観客もジョーもウンザリさせてくれます。美術館でえんえんとウンチクをいうタイプ。
でも、鋳型にはめようとする解説おじさんの手元を、ジョーは次々とすりぬけていきます。
愛する男がいても1日7〜8人の男とやります。その心は?
「蛙ごっこ」と称し床に性器を擦り付け高揚感を得ていたことや、チョコレート一袋のために「どれだけの男とやれるか」を親友と競った電車内での痴態。1日時間刻みでスケジューリングされる男とのセックス。別々の種類のオーガズムを与えてくれる3人の男。
エロシーンたっぷりで、ジョーの性生活が語られます。
唯一愛する男ジェロームがいても、ジョーはほかの男とのセックスをやめません。愛する男のセックスがもの足りないわけでも、彼女が失うことへの恐れから保険をかけているわけでもない。
ただ、彼女の性器がそれを欲している。あらゆる勃起を欲しているだけ。
人は分からないものにレッテルを貼りたがる
でも、周りの人々はその欲望の裏側の理由を知りたがります。
なぜか?理由はカンタン、怖いから。「不可解なもの」は怖いから、わかるように解体して無力化したいから。
ビッチ。メンヘラ。ヤンデレ。セックス依存症。トラウマ。男性嫌悪。承認欲求。色情狂。
彼女を呼ぶ名、張るレッテルはそれこそいくらでもあります。
でも、『ニンフォマニアック』はそんなレッテルを爽快なまでに、片っぱしから吹っ飛ばしていきます。
楽しそうで濡れる前半、心に貞操帯がつく後半
前半はエロシーンたっぷりで楽しそうなのに、後半にいくにつれて心と体に貞操帯がついていくような感じ。なんかもうね、ここまでくるとちっとも濡れない。そしてトドメのあのラスト。
長い夜が明けて、すがすがしい気持ちとともに迎えたのは、救いようのない断絶でした。
本当にもういちど言いたい。4時間かけてそれですか!!!
「男は〜」「女は〜」とレッテル張りをしては自分たちを苦しめている、すべてのはてなーと日本人は見るべき。
映画館の闇の中で、性器を濡らしながら絶望しましょう。
絶望したからこそ続けて見たい。結末を知った上でもう一度。
「絶対に男を拒まない女」に溺れる男の話。ジョーと違って彼女はみずから狩りにはいかないから「男に消費される都合のいい女」というレッテルを貼られて男の夢の対象になるけど、実際のところは?ある意味「ニンフォマニアック」とは正反対の女像かも。
これもまた、安定の絶望ラスト。暴力性はこっちのが高め。男女ともに股のあいだが凍りつくシーンがあります。あーやめてーそこはやめてー。しばらく心のEDになりたい人に。
美しい映像と、ワーグナーで語られる「終末の迎え方」。灰暗い画面の美しさと、世界の終りの迎え方。こんなに美しい終わりを迎えられるなら、と思わせる。